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山岳信仰の山として八海山が名を連ねるようになったのは、 江戸時代天長の飢餓
の
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記憶も醒めやらない寛政六年、木曽の御嶽山の王滝口を開いたかの普寛行者が地元大 |
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崎村の泰賢行者と共に八海山を中興開山してからの事です。 |
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ここに八海山は一躍御嶽山の栄ある兄弟山に列格し、 越後の内外から陸続と霊場巡拝 |
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の講集団が訪れるようになりました。 |
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その後、泰賢行者は国土平安をこいねがい、その多くを普寛行者に従い各地を遊行し |
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ましたが、地元大崎村周辺にもとどまり、御嶽行者の育成にも力を尽し中越地区を中心 |
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に数多の御嶽講を結成しました。 |
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いまでも地元周辺で人々が泰賢行者を「泰賢さま」と親しみをこめて呼ぶのはこの故で |
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す。したがって八海山大崎口の火渡祭は、自ずと泰賢行者を祖師と仰ぐ御嶽行者の行 |
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法を色濃くとどめるものになりました。 |
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火渡祭を執行する事は先達(行者)の霊力が一定の段階に達した事の証しであり、そ |
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の秘法は講中ごとに師弟の口伝により頑なに守られて来ました。八海山大崎口里宮(現 |
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八海山尊神社)の火渡祭はこうして特定の講中によって長らく散発的に行われて来まし |
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たが、やがて山田一利宮司(平成十二年没)の代に至り八海山中興の強い意志に促さ |
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れ俄かに統一の気運が昂まって来ました。 |
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ここに昭和三十五年祭日を泰賢行者の命日(春祭)から半年後の十月二十日と定め、八 |
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海山尊神社・霊風園で一堂に会して行われたのが、現在の八海山大火渡祭の始まりで |
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す。 |
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八海山の一年の修行は大寒の水垢離(滝行)からスタートし、秋の火渡祭で終わりを |
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えることから、水で始まり火で終ると語り伝えられて来ました。 |
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